長尾為景との同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:45 UTC 版)
永正4年(1507年)8月、越後守護代長尾為景が守護上杉房能を急襲し、自刃に追い込んだ(永正の乱)。為景は上杉定実を新守護に担ぎだした。藤資は他の揚北衆の諸氏が反長尾陣営に与する中、為景を支持し、新守護の定実に仕えた。同年9月、一族の築地忠基、揚北衆の大見安田実秀と共に反為景側の本庄時長の居城・本庄城を攻め、これを陥落させる。時長は嫡子・弥次郎を討ち取られ、城を退去した。この功により、定実より奥山庄荒川保のうち上条分を恩賞として与えられている。永正5年(1508年)5月、同じく反為景側である色部昌長の居城・平林城を攻撃して陥落させる。昌長は為景に誓書を出して降伏した。 永正10年(1513年)8月、藤資は為景と血判起請文を交わした。同月、藤資を介して、為景は安田実秀とも血判起請文を交わしている。 一時上条定憲の反乱に与したこともあるが、結局は為景方に帰参している。
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