釜井庵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 15:19 UTC 版)
「本洗馬歴史の里資料館」の記事における「釜井庵」の解説
戦国時代に武田氏によって滅亡した三村長親の居館跡であり、元和2年(1616年)に小笠原貞慶によって「善寿院」と命名され、高野山金剛峰寺に属する紀州徳善寺に配札所として寄進された。洗馬一帯が高遠藩領となると、地名をとって「釜井庵」と改名された。 天明3年(1783年)5月から翌4年(1784年)6月まで菅江真澄が滞在し、地元の医師・可児永通(熊谷岱蔵祖先)の客となり、地元の多くの文人と詩歌の唱和を通じて風交を結び、「委寧乃中路」「庵の春秋」「來目路乃橋」などの草稿を書き残した。現在は長野県史跡に指定されている。 釜井庵 夜泣石 妙義山城入口
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