野田城攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/14 02:30 UTC 版)
野田城は『三河物語』において「藪のうちに小城あり」と言われるほどの小さな城であり、兵力も城将・菅沼定盈とその援軍合わせて500名程度であった。しかし、河岸段丘の地形を利用した築城によって攻め口が限られてくるため、武田の大軍を相手にするには有利な構造となっていた。それでも兵力30,000を有する武田方の有利は変わらなかったが、武田軍は力攻めは行わず、わざわざ甲斐の金山掘を呼び寄せて地下道を掘り、水の手を断ち切ることで落城に追い込む作戦を採った。 結果として野田城は1ヶ月持ちこたえたが、2月16日に城兵の助命を条件に開城降伏し、定盈は捕虜として武田軍に連行された。 なお、定盈の子孫が記した『菅沼家譜』によれば、途中家康が後詰に現れたが豊川の対岸山頂で引き返してしまったという。
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