野崎城_(河内国)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 野崎城_(河内国)の意味・解説 

野崎城 (河内国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/07 01:38 UTC 版)

野崎城
大阪府
野崎城の本曲輪跡
別名 野崎城
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 畠山氏
築城年 室町時代
主な改修者 不明
主な城主 畠山尚順
廃城年 天正4年(1576年)か
遺構 削平地、曲輪
指定文化財 なし
再建造物 なし
位置 北緯34度43分11.52秒 東経135度38分45.829秒 / 北緯34.7198667度 東経135.64606361度 / 34.7198667; 135.64606361
テンプレートを表示

野崎城(のざきじょう)は、大阪府大東市にあった日本の城

概要

野崎城は、慈眼寺(野崎観音)の裏山に築かれた城で、標高114.4mの山頂に本曲輪の削平地を構築した。また飯盛山の東の支脈の突き出した場所で、平地が狭かったことから、交通の便、天然の要害で古くから戦略上の要点とされてきた。

慈眼寺から飯盛山城に向かう登山道にこの野崎城が位置する。

沿革

河内国守護畠山氏の内紛の際、畠山尚順が立てこもる野崎城に畠山義豊が攻めた、という記述あるのみで、歴史については不明な点が多い。河内国の北半分の拠点であった若江城支城として、守護代遊佐氏の一族が守っていたようである[1]

その後、飯盛山城の築城後には、飯盛山城の出城となっていたと考えられている[1]。野崎城に関する築城、廃城が記載された文献は残されていないが、廃城に関しては、飯盛山城と同時期天正4年(1576年)ではないかと推定されている。

城郭

山頂に本曲輪を設け、その東側に10m以上の堀切を配し、本曲輪の西と北に出曲輪、更に西の山麓の傾斜添いに3段にわたる4つの曲輪を設けている。

城跡へのアクセス

野崎城への登山道入口

脚注

  1. ^ a b 『大東市史』pp.242f

参考文献

  • 日本城郭大系』第12巻、大阪・兵庫、新人物往来社、1981年3月。
  • 『歴史散歩道大東』 大東市立歴史民俗資料館。
  • 『大東市史』 大東市教育委員会 編纂・発行、1973年3月

関連項目

外部リンク




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「野崎城_(河内国)」の関連用語

野崎城_(河内国)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



野崎城_(河内国)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの野崎城 (河内国) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS