酒井忠順_(庄内藩)とは? わかりやすく解説

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酒井忠順 (庄内藩)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 01:56 UTC 版)

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酒井忠順
時代 江戸時代
生誕 宝暦2年(1752年
死没 文政7年(1824年
別名 熊蔵(幼名)、一学、豊前(通称
幕府 江戸幕府
出羽庄内藩公子
氏族 酒井氏
父母 父:酒井忠温、母:側室
兄弟 忠徳忠順
忠禮、忠質、娘(市橋長昭室)、娘(坪内定儀妻)、娘(本多忠顕正室)、娘(戸川安悌妻)
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酒井 忠順(さかい ただとし)は、庄内藩酒井家の公子。酒井忠温の庶長子。出羽松山藩5代藩主酒井忠禮の実父。

経歴

宝暦2年(1753年)12月、後に庄内藩6代藩主となる酒井忠温の庶長子として江戸に生まれる。

父が正室に為姫(福岡藩黒田継高の娘)を迎える前の出生のために、為姫の子で嫡出の実弟忠徳の弟とされる。成長すると、庄内藩から2千石を与えられ、江戸に居住した。21人もの子沢山で、暮らし向きに困窮してたびたび、藩主の忠徳から金品の援助を受けた[1]

寛政5年(1793年)12月、次男忠質が、旗本酒井忠敬の養子となる。寛政6年(1794年)4月、長男忠禮が、松山藩4代藩主忠崇の婿養子となり、寛政10年(1798年)11月に藩主となる。

文政7年(1824年)死去。享年70。

天保13年(1842年) 、酒井右京、松平舎人、酒井奥之助ら家老が、藩主忠発を廃立し、忠順の孫(忠質の子)忠明を新藩主とする企てが発覚した。忠明は松山藩に送られ幽閉された。

脚注

  1. ^ 佐藤三郎著『庄内藩酒井家』

参考文献




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