遠藤守一とは? わかりやすく解説

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遠藤守一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/25 01:45 UTC 版)

遠藤 守一(えんどう もりいち、1844年2月19日天保15年1月2日)- 1880年明治13年)7月16日)は、日本の陸軍軍人徳山藩出身。従六位。別名は遠藤四郎久我四郎松岡幾也[1]

生涯

長門国徳山藩士・遠藤春岱の次男として生まれる[2]。のち松岡勘左衛門の養子となり、松岡幾也と称した。

幕末には奇兵隊に参加し、後山崎隊の幹部として活躍した[2]。元治元年(1864年)末、高杉晋作が挙兵して下関奪還を図った際には、山縣有朋のもと滋野清彦三浦梧楼らとともに三小隊を率い、報国隊と協力して門司・田ノ浦間に上陸、奮戦した[3]。第二次長州征討では豊前小倉口で陸軍奇兵隊第一中隊の隊長として従軍し、騎兵第二銃隊を率いて戦った。

維新後は陸軍局大属として出仕し、のち陸軍少佐に進む。明治4年(1871年10月28日、少佐に昇任し正七位に叙せられた[4]

明治5年(1872年4月20日には、弘前に駐屯していた歩兵部隊が「第20番大隊」として正式に編成され、仙台鎮台からの二小隊を転入して体制を整えるにあたり、陸軍少佐・遠藤守一が地方司令官として弘前城三の丸に司令部(官衛)を設置し、部隊全体の指揮を担った[5]

明治8年(1875年)には、敦賀士族の寺木定芳が官有煉瓦家屋を乃木希典に譲渡した際、その分割払い契約の身元保証人として遠藤が署名している[6]

また、『乃木希典日記』には、陸軍入りたての乃木と同僚として遠藤の名がしばしば登場する。

明治13年(1880年7月16日に病没。従六位[1]

逸話

臨済宗の僧・中原鄧州市ヶ谷の道林寺にいたころ、第二師団所属歩兵少佐であった遠藤が訪ねた際の逸話が『活才術』に伝えられている。鄧州が「ここで兵を指揮してみよ」と命じたのに対し、遠藤が「兵なきに指揮はできぬ」と答えると、鄧州は自ら馬を要求し、「ではお前が馬になれ」と言って遠藤にまたがり如意棒で尻を打った。鄧州が「これがわからねば兵は使えぬ」と言うと、遠藤は「ご垂誡を願います」と答えた。以後、遠藤は鄧州の門下となり、修行を続けたという[7]

脚注

参考文献

  • 『坊長維新関係者要覧』 山口県地方史学会、1969年、22頁。
  • 『徳山医師会史 上』 徳山医師会、1971年、22頁。
  • 『下関二千年史』 関門史談会、1915年、755頁。
  • 『明治初期歴史文献資料集 第一集』 寺岡書洞、1976年
  • 『青森県史 第八巻』 青森県、1926年、463頁。
  • 『乃木希典日記』 金園社、1970年、49頁。
  • 『活才術』 中原鄧州、実業之日本社、1915年、203頁。



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