赤崎貞幹とは? わかりやすく解説

赤崎貞幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/30 05:48 UTC 版)

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赤崎 貞幹(あかざき ていかん、元文4年(1739年) - 享和2年8月29日1802年9月25日))は江戸時代薩摩藩武士漢学者は貞幹。通称は源助。は彦礼。は海門。生年は寛保2年(1742年)、没年は文化2年(1805年)ともされる[1]。なお、諱は「ていかん」と音読みで読まれる。

谷山郷士であったが、山本伝蔵と同じく山田喜右衛門有雄(君豹)に師事する。のち肥後国で藪弧山に師事して帰藩すると、鹿児島城下士となる。山本伝蔵の後に造士館教授御用人格となるが、江戸で64歳で死去したため、再び山本が造士館教授となる。菩提寺は泉谷山大円寺法号は層巌院海門嘯月居士。なお、「薩陽過去帳」では享和2年(1802年)8月29日死亡としている。

教授の他に助教、島津斉宣の侍読、記録奉行、物頭、江戸幕府の神田聖堂弐日講釈を勤め、定府となる。

著書に「琉客譚記」などがある。また、芝山持豊より和歌を学ぶという。

大正13年(1924年)、従五位を追贈された[2]

年譜

  • 天明3年(1783年):助教及び島津斉宣侍読となる。
  • 天明6年(1786年):聖堂奉行が教授に改称される。
  • 天明8年(1788年):助教から記録奉行に役替え。また引き続き侍読を勤める。
  • 寛政5年(1793年):物頭に就任。
  • 寛政7年(1795年):教授に就任。

脚注

  1. ^ 死亡年月日について、「称名墓志」によると南林寺にあった墓石には文化2年8月30日に死去としている。
  2. ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.54

参考文献

  • 「鹿児島県史料集14 薩陽過去帳」
  • 薩藩叢書刊行会「新薩藩叢書3」歴史図書社




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