谷山豊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/01 00:40 UTC 版)
たにやま とよ(ゆたか)
谷山 豊 |
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生誕 | 1927年11月12日![]() (現:加須市) |
死没 | 1958年11月17日(31歳没)![]() ガス自殺 |
国籍 | ![]() |
研究分野 | 数学 |
研究機関 | 東京大学 |
出身校 | 東京大学理学部数学科卒業 |
主な業績 | 谷山–志村予想 |
影響を 受けた人物 |
アンドレ・ヴェイユ 志村五郎 |
影響を 与えた人物 |
志村五郎 |
プロジェクト:人物伝 |
谷山 豊(たにやま とよ〈ゆたか〉[注釈 1] 、1927年〈昭和2年〉11月12日 - 1958年〈昭和33年〉11月17日)は、日本の数学者。理学博士。
来歴
埼玉県北埼玉郡騎西町(現在の加須市騎西地域)出身。開業医の家庭に、八人兄弟の六番目として生まれる。
旧制埼玉県立不動岡中学校(現在の埼玉県立不動岡高等学校)を経て、旧制浦和高等学校(現在の埼玉大学)に進学[2]。身体が弱かったため2年休学して1950年に卒業。この頃に高木貞治の『近世数学史談』を読み、数学者を志すようになる。
その後、東京大学理学部数学科、同助手を経て、1958年に東京大学助教授に就任。同年5月、理学博士(東京大学。学位論文の題は『Jacobian varieties and number fields』[3])。10月には婚約が決まり、プリンストン高等研究所からの招聘を受けるが、その矢先の11月17日に豊島区池袋の自宅アパートでガス自殺を遂げる[4]。享年32(満31歳没)。兄と久賀道郎に宛てた遺書は大学ノート3枚に及び[4]、その冒頭には、
昨日まで、自殺しようという明確な意思があったわけではない。ただ、最近僕がかなり疲れて居、また神経もかなり参っていることに気付いていた人は少なくないと思う。自殺の原因について、明確なことは自分でもよくわからないが、何かある特定の事件乃至事柄の結果ではない。ただ気分的に云えることは、将来に対する自信を失ったということ。僕の自殺が、或る程度の迷惑あるいは打撃となるような人も居るかもしれない。このことが、その将来に暗いかげを落とすことにならないようにと、心から願うほかない。いずれにせよ、これが一種の背信行為であることは否定できないが、今までわがままを通してきたついでに、最後のわがままとして許してほしい。[5]
と綴られていた[注釈 2]。没後、従七位に叙せられている[6]。墓は善応寺(加須市)。戒名は「理顕明豊居士」[7]。
その後、婚約者・鈴木美佐子も、遺書に「私たちは何があっても決して離れないと約束しました。彼が逝ってしまったのだから、私もいっしょに逝かねばなりません」[8]と書き残して12月2日にガス自殺を遂げている[注釈 3]。翌年1月25日、谷山・鈴木両家による「葬婚式」が行われた。善応寺にある谷山の墓には鈴木の遺骨も埋葬され、墓石には二人の戒名が並んで刻まれている[10]。
業績
固有名詞の分類
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