読谷のやちむん村
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 18:05 UTC 版)
戦後、壺屋を足掛かりとして周辺地域の都市化が進んだ那覇では、1970年代になると薪窯の使用が規制され、登り窯の運営も困難となってきた。一方、村の面積95%が米軍によって接収されていた読谷村では、段階的な返還が実現しはじめていた。嘉手納弾薬庫地区内の不発弾処理場が返還され、その読谷の丘陵地が壺屋焼の登り窯の新天地候補となった。1974年、金城次郎は読谷に窯を移した。その後、多くの陶工がやちむんの里に登り窯をかまえ、読谷の「やちむん村」の素地となった。
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