襲撃者たちの処分
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/09 03:28 UTC 版)
知らせを聞いた内務卿大久保利通は、ただちに西郷従道とともに参内。岩倉が軽傷と知ってひとまず安心するが、不平士族による政府高官の襲撃という事態を重く見た大久保は、ただちに警視庁大警視川路利良に早急な犯人捜索を命じた。その甲斐あって事件の3日後の1月17日には、武市熊吉ら9人は逮捕された。現場に残された武市熊吉の下駄が手がかりになったという。同年7月9日、司法省臨時裁判所に於いて、全員が斬罪の判決を受けて伝馬町牢屋敷にて処刑されている。 なお4年後の明治11年(1878年)、喰違見附のすぐ先にある紀尾井坂で、大久保利通が石川県士族島田一良らに襲撃されて、暗殺されている(→紀尾井坂の変)。
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