藤堂融
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藤堂 融(とうどう とおる[1]、1856年8月17日(安政3年7月17日[2]) - 1908年(明治41年)9月17日))は、明治時代の司法官僚。大審院検事。名古屋控訴院検事長、大阪控訴院検事長。
経歴
豊前小倉藩領企救郡小倉城下田町(福岡県企救郡小倉町、小倉市田町を経て現北九州市小倉北区田町)出身[2]。應當立常の長男[2]。1876年(明治9年)家督を相続し1896年(明治29年)姓を藤堂に改める[2]。1875年(明治8年)長崎師範学校卒業[1]、1877年(明治10年)司法省法学校出仕生徒を経て[1]、1881年(明治14年)判事となり、1886年(明治19年)よりドイツに私費で渡りで法学を修める[1][2]。1890年(明治23年)東京控訴院判事となり大審院検事を経て、1898年(明治31年)名古屋控訴院検事長となった[3]。のち大阪控訴院検事長に就任した[4]。1908年(明治41年)9月17日胃がんのため死去[5]。享年52歳。
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
- ^ a b c d 鈴木正裕『近代民事訴訟法史・日本2』有斐閣、2006年、5-12頁。
- ^ a b c d e f g 人事興信所 1903, 217頁.
- ^ 人事興信所 1903, 217-218頁.
- ^ 『官報』第7571号「叙任及辞令」明治41年9月18日。
- ^ 大植四郎『明治過去帳 物故人名辞典 新訂版』東京美術、1971年、1087-1088頁。
- ^ a b 『官報』第7572号「叙任及辞令」明治41年9月19日。
参考文献
- 人事興信所 編『人事興信録 初版』人事興信所、1903年 。
- 大植四郎『明治過去帳 物故人名辞典 新訂版』東京美術、1971年。
- 鈴木正裕『近代民事訴訟法史・日本2』有斐閣、2006年。
公職 | ||
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先代 倉富勇三郎 |
![]() 1904年 - 1908年 |
次代 水上長次郎 |
先代 安居修蔵 |
![]() 1898年 - 1904年 |
次代 手塚太郎 |
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