藤原周家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/03 09:48 UTC 版)
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時代 | 平安時代中期 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 長暦2年9月1日(1038年10月1日) |
官位 | 従四位下、大舎人頭 |
主君 | 一条天皇 |
氏族 | 藤原北家中関白家 |
父母 | 父:藤原道隆、母:伊予守奉孝の娘 |
兄弟 | 道頼、頼親、伊周、定子、隆家、原子、隆円、頼子、御匣殿、周家、周頼、藤原妍子女房、好親、平重義室 |
子 | 長心、行尊 |
藤原 周家(ふじわら の ちかいえ)は、平安時代中期の貴族。藤原北家、摂政関白内大臣・藤原道隆の子。官位は従四位下・大舎人頭。
経歴
一条朝の長保5年(1003年)頃から寛弘6年(1009年)頃にかけて右衛門佐を務め、のち兵部大輔や大舎人頭に任ぜられた。また、小一条院の乳母を妻とし、院に恪勤の侍として仕えたという[1]。
後朱雀朝の長暦2年(1038年)9月1日に周家の物を盗み取ろうとした家来に殺害される。従兄弟にあたる関白・藤原頼通一族や[2]、甥の頭弁・藤原経輔が喪に服したという[3]。
官歴
- 長保5年(1003年) 4月6日:見右衛門佐[4]
- 時期不詳:従四位下[4]
- 寛弘4年(1007年) 4月5日:見右衛門佐[4]
- 寛弘6年(1009年) 日付不詳:止右衛門佐?[5]
- 時期不詳:兵部大輔[1]。大舎人頭[6]
- 長暦2年(1038年) 9月1日:卒去[7]
系譜
『尊卑分脈』による。
脚注
出典
- 藤原周家のページへのリンク