薩摩川内市立滄浪小学校とは? わかりやすく解説

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薩摩川内市立滄浪小学校

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/16 01:26 UTC 版)

薩摩川内市立滄浪小学校
北緯31度50分27.6秒 東経130度12分14.6秒 / 北緯31.841000度 東経130.204056度 / 31.841000; 130.204056座標: 北緯31度50分27.6秒 東経130度12分14.6秒 / 北緯31.841000度 東経130.204056度 / 31.841000; 130.204056
過去の名称 高江36郷校分校本校
久見崎小学校
滄浪小学校
滄浪簡易科小学校
滄浪尋常小学校
滄浪尋常高等小学校
滄浪国民学校
川内市立滄浪小学校
国公私立の別 公立学校
設置者 薩摩川内市
校訓 あかるく
かしこく
たくましく
設立年月日 1876年
閉校年月日 2012年3月
共学・別学 男女共学
学期 3学期制
所在地 895-0132
鹿児島県薩摩川内市久見崎町158番地
外部リンク 公式サイト
ウィキポータル 教育
ウィキプロジェクト 学校
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薩摩川内市立滄浪小学校(さつませんだいしりつ そうろうしょうがっこう)は、鹿児島県薩摩川内市久見崎町にあった市立小学校

概要

児童数は2011年時点で16人が在籍していた[1]2012年3月に閉校した。

学校名の由来は、中国の文人政治家屈原の詩にちなみ、川内川中国湖北省を流れる滄浪になぞらえている[2]

1945年7月30日に空襲によって勤労奉仕で学校に来て犠牲となった児童7人の慰霊と平和学習が行われていたが、閉校に伴い慰霊祭は地元の協議会に引き継がれた。引き継がれた慰霊祭も高齢化を理由に戦後70年目に当たる2015年で最後の開催となった。

歴史

  • 1876年(明治9年) - 高江36郷校分校本校として開校
  • 1879年(明治12年) - 久見崎小学校と改称
  • 1986年(明治19年) - 滄浪簡易科小学校と改称
  • 1892年(明治25年) - 滄浪尋常小学校と改称
  • 1902年(明治35年) - 滄浪尋常高等小学校と改称
  • 1941年(昭和16年) - 国民学校令施行に伴い、滄浪国民学校と改称
  • 1945年(昭和20年) - 戦災で校舎を焼失。勤労奉仕で集まっていた児童7人が犠牲となる。
  • 1947年(昭和22年) - 学制改革により滄浪小学校と改称
  • 2004年(平成16年) - 川内市が新設合併し、薩摩川内市となったのに伴い、薩摩川内市立滄浪小学校と改称
  • 2012年(平成24年) - 閉校

通学区域

滄浪小学校の通学区域は以下の区域が指定されていた[3]

進学先中学校

周辺施設

脚注

  1. ^ 学校要覧 - 2015年8月2日閲覧。
  2. ^ 校名の由来
  3. ^ a b 薩摩川内市立学校の通学区域 - ウェイバックマシン(2011年8月17日アーカイブ分)

関連項目

外部リンク




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