薄葉ヶ原合戦と落城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 15:21 UTC 版)
天正12年(1584年)8月初め、山田辰業(泰業の孫)は主命により那須氏領の薄葉、平沢を攻めた(「那須記」)。これに対して、那須方の福原資孝、資広父子が出陣し、山田勢は退却するが、この時、深い遺恨を残すことになった。 そして翌年の3月、薄葉ヶ原合戦が勃発。宇都宮勢二千五百余騎、那須勢一千余騎が薄葉ヶ原で激突し、この戦いで先鋒の総大将として出陣した辰業は、3月25日、那須勢の蘆野資泰の陣に突撃し、神田次郎に討たれる。その後、那須勢は、薄葉ヶ原に接する山田の地に攻め入り、山田城を落城させた。この時、城には家老の山田新左衛門と辰業の正室菊の前がいて城を脱出したものの、新左衛門は菊の前を逃がすために討死し、菊の前も11人の侍女たちとともに太鼓岩と呼ばれる崖の上から下を流れる箒川に向かって投身、自害した。
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