葛城彦一
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葛城 彦一(かつらぎ ひこいち、1818年12月2日(文政元年11月5日[1]) - 1880年(明治13年)1月23日)は、幕末の武士で薩摩藩士、志士。本姓は竹内。名は経成または重任。通称は伴右衛門。変名として内藤助右衛門を名乗る。死後に正五位を贈られた。
生涯
大隅国加治木町(現在の鹿児島県姶良市)の郷士の子として生まれる。早くから国学を志し、天保9年(1838年)、20歳の時に江戸へ出て平田篤胤に入門した。門下では多くの学者や志士と交流をした。鹿児島に戻ると、島津家の家督相続の内紛のお由羅騒動が勃発していた。
葛城は島津斉彬を推して、その弟の島津久光に対抗したため、身の危険を感じ、同志の相良藤次とともに脱藩し、斉彬の大叔父の福岡藩藩主黒田斉溥を頼り筑前国に逃れた。文久3年(1863年)罪を赦されたため帰藩。加治木島津家から斉彬の養女となり、左大臣の近衛忠房に嫁いだ貞姫(近衛光子)の付け人として近衛家に仕え、幕末の京都で活躍した。明治13年1月23日死去。63歳。墓所は青山霊園と加治木の真光院墓地に所在[2][3]。
脚注
- ^ 文化14年とも
- ^ コトバンク 葛城彦一
- ^ 姶良市デジタルミュージアム
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