華国鋒の目指した「四つの近代化」
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「四つの近代化」の記事における「華国鋒の目指した「四つの近代化」」の解説
1976年9月9日に毛沢東が死去すると、「四人組」と「反四人組グループ」との権力闘争が激しくなった。華国鋒を中心とする「反四人組グループ」が、「四人組」を電撃的に逮捕し、「あなたがやれば私は安心だ」という「遺訓」をうけたとされた華が実権を握ることとなった。華は、毛沢東路線の忠実な後継者であることを示すために、「二つのすべて」を掲げると同時に、独自に経済再建に取り組んだ。1978年2月の第5期全人代第1回会議が開かれ、そこでも「四つの近代化」を掲げた。しかし華国鋒体制下の経済建設計画は、もともと極めて少ない外資が底を尽き行き詰った。しかも中国経済の現実に立脚していなかったため、先進技術の効果的な利用もままならず、大量の経済浪費を生み出した。鄧小平、陳雲らは華の政策を、「大躍進」をもじって、「洋躍進」と批判した。
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