荻原昌之とは? わかりやすく解説

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荻原昌之

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/23 14:12 UTC 版)

 
荻原昌之
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文2年(1533年
死没 天正16年5月10日1588年6月3日[1]
別名 甚之丞、馬丞、源八郎
戒名 道輝(法名)
墓所 恵林寺
主君 武田信玄武田勝頼徳川家康
氏族 清和源氏甲斐武田氏支流荻原氏
父母 父:荻原正明(荻原豊前守昌明)、母:板垣信形
兄弟 昌之、昌平、昌重、下島與政
昌友、娘(平岡次郎右衛門妻)、娘(岡登次郎兵衛妻)
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荻原 昌之(おぎわら まさゆき)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将甲斐武田氏が滅んだ後、徳川家に従った。

略歴

荻原昌勝の一族。『甲陽軍鑑』の記事に拠ると、荻原氏は甲斐国山梨郡荻原(旧東山梨郡三富村)の国境秩父口の防備を勤めた一族で、その子孫とされる家が武田信玄に仕えた。武田信玄陣立書によると旗本の横目衆に属している。

天正10年(1582年)3月に織田信長・徳川家康連合軍の武田征伐による甲斐武田氏滅亡後、徳川家康から荻原本領を安堵され[2]甲州九口之道筋奉行に命じられる。天正12年(1584年長久手の戦いに従軍。天正16年(1588年)5月10日、56歳で死去[1]

なお、江戸幕府5代将軍徳川綱吉に仕えた財政家・荻原重秀はこの荻原氏の一族である。

系譜

子孫は八王子千人同心千人頭として明治期まで存続。

脚注

  1. ^ a b 寛政重修諸家譜』巻第六百
  2. ^ 『武藤文書』



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