肝付兼篤とは? わかりやすく解説

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肝付兼篤

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/20 07:12 UTC 版)

 
肝付兼篤
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 永禄5年(1562年
死没 慶長14年6月29日1609年7月30日
改名 兼仍→兼篤
別名 小五郎(幼名)、狩之介、伴兵衛(通称
戒名 傑心大英居士
官位 越前守
主君 島津義久家久
薩摩藩
氏族 肝付氏
父母 父:肝付兼盛、母:菱刈重根の娘
兄弟 兼寛兼篤
岩切善信の娘
兼武

肝付 兼篤(きもつき かねあつ)は、大隅国肝付氏庶流の武将で、薩摩藩(鹿児島藩)島津氏家臣。初代喜入肝付家当主。

略歴

永禄5年(1562年)肝付兼盛の子として生まれる。天正18年(1590年)兄兼寛が嗣子のないまま没し、肝付家の家督は、島津家重臣伊集院忠棟の強い求めで、忠棟の三男兼三が相続することとなる。

慶長4年(1599年)当主兼三が、実父忠棟の誅殺事件により、肝付家を離れたことで、親族間の相談により、先々代兼盛の実子兼篤を相続者と決定し、主君義久の許しと義弘忠恒の同意を得て家督相続した。同年忠棟の嫡男伊集院忠真庄内の乱を起すと、義弘、忠恒の命で討伐の軍に加わる。

慶長10年(1605年)家中で従兄弟兼秋、兼堯兄弟(叔父肝付兼有の子)による肝付家の家督相続を狙った陰謀が露見し、それを収める。

慶長14年(1609年)主君家久の琉球出兵に従い出陣する。琉球からの帰国後、病により同年6月29日没。享年48。

参考文献

  • 「喜入村郷土史」
  • 本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)



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