第2護郷隊(第4遊撃隊)
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第4遊撃隊(第2護郷隊)(岩波壽隊長)は3個中隊、約393名で編成。岩波大尉と他5名の中野学校出身士官が着任。恩納岳と石川岳を拠点として遊撃戦に備えた。中部から逃げ延びてきた飛行場部隊などが合流し、当初の部隊の人数から千人規模に膨れ上がった。 恩納岳山頂付近に部隊の司令部や機関銃壕、また中腹には野戦病院や兵舎などが設営されていたが、徐々に追い詰められ、野戦病院は負傷した少年兵などであふれていたという証言もある。 「 軍人勅諭を覚えることができなければ捧げ銃を一時間もさせられる人もいました。小さい体の人は大変だったと思います 」 —第二護郷隊所属 (大宜味村)(『広報おんな』425号 (2016)より) 第4遊撃隊は7月10日に北側の久志岳あたりまで北上し、第3遊撃隊長の村上隊長と合流。岩波隊長は秘密遊撃戦に移行することを宣言し、7月16日に部隊を解散して隊員を帰還させ、情報収集や食料調達を続行させた。地元住民を通じての米軍の下山勧告もあり、10月2日、中隊長らとともに投降した。 第二護郷隊の慰霊碑
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