立石氏との攻防から滅亡までとは? わかりやすく解説

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立石氏との攻防から滅亡まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/01 02:58 UTC 版)

美作後藤氏」の記事における「立石氏との攻防から滅亡まで」の解説

明応7年1498年)、後藤康秀は美作中央部勢力を誇る美作立石氏を攻めるも美和山城主立石景泰美作立石27当主)に撃退され討死した。 その子・勝政は父の恨みを晴らすため機会を窺った。そして、立石景泰病没し、その子立石久朝が立石家28代を跡を継いだ文亀2年1502年)に再度美和山城を攻め、これを落城させた。こうして立石氏を滅ぼし東作州に覇を唱え確立した。 勝政の孫・勝基の代では全盛期迎え安東氏初め江見水島小坂田ら近隣在地土豪をその支配下組み入れ赤松氏一族豊福氏の勢力東作州から一掃した。勝基ははじめは尼子氏味方していたが、勢力衰退すると、備前浦上宗景寝返り浦上氏後ろ盾として勝基は完全に東作州を掌握した勝元家督嫡男後藤元政に譲ったが、後見する形で勢力伸ばした。しかし、天正7年1579年)、浦上宗景備前天神山城滅ぼした宇喜多直家は、美作制覇するために出兵した。同年3月ごろから三星城攻撃はじまり、5月落城美作後藤氏滅亡した。勝基は自害。子・元政落ちのびたとも、城で討ち取られたなど諸説ある。

※この「立石氏との攻防から滅亡まで」の解説は、「美作後藤氏」の解説の一部です。
「立石氏との攻防から滅亡まで」を含む「美作後藤氏」の記事については、「美作後藤氏」の概要を参照ください。

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