稲川政右エ門 (1871年生)とは? わかりやすく解説

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稲川政右エ門 (1871年生)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/15 00:08 UTC 版)

稲川 政右衛門(いながわ まさえもん、明治4年8月23日1871年10月20日) - 大正5年(1916年2月17日)は、群馬県高崎市出身で稲川部屋→浦風部屋→高砂部屋[1]に所属した大相撲力士。本名は吉井→松本 貞四郎。身長167cm、体重110kg。最高位は関脇

人物

ずんぐりとした体からの突き押しを武器に上位陣を苦しめた。稲川門人だった角界入り当初は、弱く期待もされていなかったが、努力を積み重ねて入幕。1900年明治33年)1月場所には8勝1敗と優勝相当の成績を残している[1]。1901年~1906年頃には上位に定着し関脇5場所を務めている。1901年5月大関梅ノ谷と引分、1902年1月大砲に勝利、晩年の1907年5月にも横綱梅ヶ谷に勝利している。1909年1月、9戦全敗し両国国技館開館を前に引退。年寄・5代稲川を襲名。1916年2月死去。

略歴

  • 1888年(明治21年)5月 初土俵を踏む(序ノ口)[1]
  • 1896年(明治29年)5月 新十両。
  • 1898年(明治31年)5月 新入幕[1]
  • 1901年(明治34年)5月 関脇に昇進。
  • 1910年(明治42年)1月 引退[1]

主な成績

  • 幕内戦歴 76勝72敗45休22分5預(22場所)
  • 優勝相当成績1回

肖像写真

写真家日本近現代写真研究家である谷口雅彦氏所有の、写真師・東京新橋江木写真館の成田常吉撮影の鶏卵紙プリントが存在している。写真には、大阪毎日新聞社から贈られた化粧まわしを締めた稲川が写っている。

群馬県高崎市の常安寺に建立されている。

参考文献

関連項目

出典

  1. ^ a b c d e ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(3) 高砂部屋』p19



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