石弘殺害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
10月、石弘は自ら璽綬(天子の印と組紐)を携えて魏宮を詣でると、石虎へ帝位を譲る意を伝えた。これに石虎は「帝王の大業というものは、天下が自ずと議をなすものです。どうしてこれを自ら論じましょうか!」と拒絶した。 その後、尚書もまた石弘の意向を受けて「魏台(石虎)が唐・虞(堯・舜)の禅譲の故事に依る事を求めます」と奏じたが、石虎は「弘(石弘)は暗愚である。喪中にありながらこのような礼なき振る舞いを行うとは。万国の君となるべき存在ではない。これは廃するべきであり、どうして禅譲など受けようか!」と述べた。 11月、石虎は丞相郭殷に節を持たせて入宮させると、石弘を廃して海陽王に封じた。その後、石弘を程皇太后・秦王石宏・南陽王石恢と共に崇訓宮に幽閉し、やがて殺害した。群臣はみな涙を堪えられず、宮人は慟哭した。
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