矢部達三とは? わかりやすく解説

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矢部達三

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/08 10:09 UTC 版)

矢部達三

矢部 達三(やべ たつぞう、1943年11月23日 - )は、埼玉県出身の元ラグビー選手。

プロフィール

来歴

埼玉県立浦和高等学校を経て、1962年早稲田大学第一政経学部に入学。同大学のラグビー部で活動。

1962年当時、関東大学ラグビー対抗戦において、一・二部制にあたる、『A・Bブロック制』が取られていたが、早稲田は同年シーズン、Bブロック(二部に相当)転落の憂き目に遭った。そこで、大西鐡之祐を監督に迎え、木本建治を主将とする体制となったが、木本は当年シーズンのみならず、将来の「早稲田復活」を願い、矢部ら1年生部員を徹底して鍛え上げた。その成果が現れ、同年の早明戦に1年生としてただ一人矢部が出場することになった。また同年は、明治大学が一部に相当するAブロックで優勝したため、下馬評では圧倒的に明治優勢が伝えられたが、後半に入って早稲田フォワードが明治のそれを圧倒し、17-8で勝利した。以後、矢部は4年連続で早明戦に出場することになる。

1965年主将に就任。当時の監督は横井久であった。対抗戦を7戦全勝とした早稲田は、続く第2回全国大学ラグビーフットボール選手権大会(大学選手権)において、京都日本を破り、決勝でも前年大会決勝で敗れた法政を16-0で下し、初の大学選手権優勝とあいまった。そして1966年1月15日花園ラグビー場で行われた第3回日本ラグビーフットボール選手権大会では、全国社会人ラグビーフットボール大会で史上初の4連覇を達成した八幡製鐵と対戦。一進一退の攻防が続いたが、ノーサイド寸前に山本巌がペナルティキックを決めて12-9で勝ち、早稲田は初のラグビー日本一の座に就いた。

その後、三菱銀行を経てユニオン・バンク・オブ・カリフォルニアに勤務。2005年に早稲田大学ラグビー蹴球部OB会(早大ROB倶楽部)会長、2011年日本ラグビーフットボール協会専務理事に就任した。

関連項目

参考文献




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