相論後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 03:00 UTC 版)
相論から3か月後の延暦25年3月17日(ユリウス暦806年4月9日)、桓武天皇は70歳で崩御した。 菅野真道は『続日本紀』の編者の一人として、藤原緒嗣は『日本後紀』の中心的編者として知られている。『日本後紀』は桓武天皇の功績について、「宸極に登りてより、心を政治に励し、内には興作を事とし、外には夷狄を攘つ。当年の費と雖も、後世頼とす」と評している。 また、征夷大将軍参議・坂上田村麻呂も相論の席に参列していたものと考えられる。田村麻呂は延暦23年1月28日(ユリウス暦804年3月13日)に征夷大将軍に任命されていたが、徳政相論によって桓武朝第四次蝦夷征討は中止された。
※この「相論後」の解説は、「徳政相論」の解説の一部です。
「相論後」を含む「徳政相論」の記事については、「徳政相論」の概要を参照ください。
- 相論後のページへのリンク