畑中平之丞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/17 06:39 UTC 版)
はたなか へいのじょう
畑中 平之丞
|
|
---|---|
石碑「畑中平之丞之像」
|
|
生誕 | 1843年 備中国小田郡北木島村 |
死没 | 1930年5月 |
国籍 | ![]() |
職業 | 石材商 |
畑中 平之丞(はたなか へいのじょう、天保14年〈1843年〉 - 昭和5年〈1930年〉5月)は、日本の石材商。北木島において北木石の石材業の基盤を作ったことで知られる。畑中 平之烝とも。
経歴
北木島における採石業
笠岡諸島の北木島は北木石で知られる離島であり、豊臣秀吉による大坂城築城の際には盛んに切り出された[1]。しかし、江戸時代には北木島の採石業が不振となり、幕末には有志が小規模な採石を試みていた程度だった[2]。
石材業への功績

天保14年(1843年)、畑中平之丞は北木島北岸の豊浦に生まれた[3]。『笠岡市史』などは伊予国出身としている[4][5]。

1872年(明治5年)1月、畑中は北木島における石材業の可能性に着目した[2]。伊予国から石工を招き、第三者の持山を賃借りして採石を行った[4]。帆船に北木石を積んで京阪神に向かい、神社や寺院に販売した[2]。やがて販路を東京にも拡大させ[4]、1885年(明治18年)には東京・日本橋の日本銀行本店本館に北木石が用いられた。そのころから北木石の需要が増加し[1]、明治20年代になると本格的な採石が行われるようになった[4]。
1895年(明治28年)12月27日、26人の石材業者で北木島石丁場組合が結成された[4]。1898年(明治31年)に畑中は約56円を納税しており、北木島村における最高納税者だった[6]。1898年(明治31年)には北木島に北木島郵便局を設立し、自身は初代局長に就任した。1908年(明治41年)1月、大浦集落の諏訪神社の境内に石碑「大山祇命」を建てた[7]。高さ3.6メートルの自然石を用いており、碑文として北木島の石材業の沿革を記している[7]。
1930年(昭和5年)5月に死去した。
死後の顕彰
死去から約半世紀後の1979年(昭和54年)5月1日、畑中平之丞翁顕彰会によって石碑「畑中平之丞之像」が建立された。なお、同年には北木石材商工業組合が設立されている。
脚注
参考文献
- 『小田郡誌 下 増訂版』岡山県小田郡教育会、1941年
- 『笠岡市史 第1巻』笠岡市、1983年
- 笠岡市史編さん室『笠岡市史 第2巻』笠岡市、1989年
- 笠岡市史編さん室『笠岡市史 第3巻』笠岡市、1996年
- 畑中平之丞のページへのリンク