田岡組長の態度
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:37 UTC 版)
この抗争は、大阪戦争に端を発する関西二十日会との対立と仲裁をめぐる時期と重なっていた。当然、一連の抗争は二十日会側との対立を激しくするものであった。だが田岡組長自身は一連の抗争について黙認していた節がある。小椋組長殺害をめぐって木下会が処分を先延ばししていることについて、竹中正久は報復を示唆していたが田岡からは何も異論が無かった。木下会の高山組長が殺害された後に、田岡は自宅に竹中正久を招き、山口組本部長・小田秀臣(山口組若頭補佐)に、山口組から500万円を出させている。竹中正久は固辞したが、山口組若頭補佐・加茂田重政(後の一和会副会長兼理事長)が500万円を竹中正久の背広のポケットに押し込んで、竹中正久を納得させた。
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