田中家と和田家の関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/02 01:02 UTC 版)
田中権内の嫡子田中喜三右衛門義貴は正徳三癸巳歳にはまだ十歳であった為、供養塔にも記されている縁戚の和田家治兵衛が佐礼谷村の庄屋職を弟伝五兵衛に譲って砥部大庄屋田中家に夫婦で入籍し義貴が成人するまでの間の後見をし、後に治兵衛は和田家庄屋に復帰している。したがって、田中家には夫婦による養子の記録はあるが法名は記されてはない。 和田家は、先祖河野氏族和田山城主越智通勝、久米郷岩伽羅城、石井村衣掛城兼帯、八代孫高市村庄屋ト成リ享保五歳佐連谷村庄屋と成る其後嫡子譲リ砥部宮内大庄屋田中養子ト成」 大洲領庄屋由来書にある。 田中権内の先祖 は上記にあるが、中村庄右衛門ノ代、先祖河野氏族岩伽羅衣掛城和田三河守子孫麻生庄屋田中義正養子参り姓を田中と改め、田中権内に至り 両家は縁戚関係にある。
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