琴の弦(緊緩中道)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/13 05:31 UTC 版)
パーリ語経典の律蔵・犍度・大品(マハーヴァッガ)においては、どんなに精進しても悟りに近づけず焦燥感・絶望感を募らせていたソーナという比丘が登場する[要ページ番号]。彼は、過度の修行により足から血を流すほどであった[要ページ番号]。それを知った釈迦は、ソーナが琴の名手であったことを知り、以下の説法を行った[要ページ番号]。 「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張り過ぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「いいえ、そうではありません、大徳(釈迦)よ」「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が緩すぎたならば、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「いいえ、そうではありません、大徳よ」「ソーナよ、どう思うか。もしあなたの琴の弦が張りすぎず、緩すぎもなく、丁度よい度合いを持っていたら、琴の音色は快く妙なる響きを発するだろうか?」「そのとおりです、大徳よ」「ちょうど同じように、ソーナよ、行き過ぎた努力は高ぶりを招き、少なすぎる努力は懈怠を招く。それゆえソーナよ、あなたはちょうどよい努力を保ち、感官にちょうど良いところを知り、そこに目標を得なさい」 — ケン度大品 5,16-17 弦は、締め過ぎても、緩め過ぎても、いい音は出ない、程よく締められてこそいい音が出る、比丘の精進もそうあるべきだと釈迦に諭され、ソーナはその通りに精進し、後に悟りに至った。
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