狭義の「不来方」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:53 UTC 版)
現在の盛岡市中心部は「岩手郡仁王郷不来方」に相当する。その名は南北朝期には既に古文書に記されており、「陸奥話紀」の記載では、清原武則の甥・橘頼為が領主となっていたのが「逆志方」。南部氏は蒲生氏郷らの勧めでこの地への築城を決めたという。 一般に、南部氏が築いた盛岡城の別名が「不来方城」と解されているが、厳密には両者は別の城である。永享11年(1439年)に福士氏が城代として定着し、「不来方殿」と呼ばれたのが「不来方城」の始まりであり、「不来方城」を基礎に拡大して南部氏が築いたものが、後の「盛岡城」である。 現在の岩手医科大学附属病院の北辺(盛岡市本町通)には、不来方町の石碑が残っている。また、盛岡城址には不来方城を詠んだ石川啄木の句碑が立てられている。
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