牧野篤好
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牧野 篤好(まきの あつよし[1]、弘化3年2月8日〈1846年3月5日〉[2] - 大正7年〈1918年〉4月15日[2][注釈 1])は、日本の官僚[4]。出生名は次郎吉[2]。号は、岳陽[4]、鶴翁山房主人[2]。
種子島の生まれではないものの、種子島の発展に尽力した[4]。
人がら
長身痩躯であり、天資温情の人であったと伝えられる[4]。他者を尊重して自分を控えめにする性格であり、相手が幼児であっても見下すようなことはなかった[4]。
経歴
静岡県城東郡棚草村(現・菊川市棚草)の農家に生まれる[4]。
30歳を超えてから発奮し、中村正直の門下生となり、漢学、英学を学び、駒場農学校に学んだ[4]。
1879年(明治12年)に勧農局の官吏となる[4]。農商務省の所属を経て鹿児島県属となり、1883年(明治16年)に官命によって種子島へ配属され、糖業の奨励を行った[3][4]。1886年(明治19年)、1887年(明治20年)に甑島列島から種子島へ約1400人、600戸余りの移民が行われた際には、世話係主任を務めた[3][4]。
1890年(明治23年)9月に旧熊毛郡の初代郡長に就任し、1897年(明治30年)4月に馭謨郡を加えた新たな熊毛郡成立後も、郡長を続投した[5]。1902年(明治35年)12月[5]に退官するまでの12年間に、他地域へ転任にならなかったのは、郡民からの陳情、懇留によるものだったとされる[4]。
種子島の気候が茶の栽培に適していることに着目し[6]、退官後に帰郷した静岡県で茶農家に種子島への移住を勧めた[3][4]。まず、1912年(明治42年)に栗田茂三郎、松下助七、松下清作の3名が古田番屋峯(現・西之表市)に入植を行った[6]。以降も移住者はさらに増え、更に茶園を造成していった結果、種子島は鹿児島県下における茶業の先進地となっていった[3]。
脚注
注釈
出典
- ^ 「種子島の西之表市長と菊川市長がお茶談議」『中日新聞』2022年4月26日。2025年4月6日閲覧。
- ^ a b c d 「小笠町誌」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e “63 牧野篤好と茶業の縁”. 市長独言(広報紙市長コラム). 西之表市. 2025年4月6日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l 井元正流「牧野 篤好(号 岳陽)」『種子島人列伝』南方新社、2003年、416-417頁。ISBN 978-4861240034。
- ^ a b 「上屋久町郷土誌」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 「郷土教育資料鹿児島県の農林畜蚕水産業」国立国会図書館デジタルコレクション
関連項目
- 鹿児島茶
- 種子島茶
- 牧野篤好のページへのリンク