牧野篤好とは? わかりやすく解説

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牧野篤好

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/06 11:34 UTC 版)

牧野 篤好(まきの あつよし[1]弘化3年2月8日1846年3月5日[2] - 大正7年〈1918年4月15日[2][注釈 1])は、日本官僚[4]。出生名は次郎吉[2]は、岳陽[4]鶴翁山房主人[2]

種子島の生まれではないものの、種子島の発展に尽力した[4]

人がら

長身痩躯であり、天資温情の人であったと伝えられる[4]。他者を尊重して自分を控えめにする性格であり、相手が幼児であっても見下すようなことはなかった[4]

経歴

静岡県城東郡棚草村(現・菊川市棚草)の農家に生まれる[4]

30歳を超えてから発奮し、中村正直の門下生となり、漢学英学を学び、駒場農学校に学んだ[4]

1879年(明治12年)に勧農局官吏となる[4]農商務省の所属を経て鹿児島県属となり、1883年(明治16年)に官命によって種子島へ配属され、糖業の奨励を行った[3][4]1886年(明治19年)、1887年(明治20年)に甑島列島から種子島へ約1400人、600戸余りの移民が行われた際には、世話係主任を務めた[3][4]

1890年(明治23年)9月に旧熊毛郡の初代郡長に就任し、1897年(明治30年)4月に馭謨郡を加えた新たな熊毛郡成立後も、郡長を続投した[5]1902年(明治35年)12月[5]に退官するまでの12年間に、他地域へ転任にならなかったのは、郡民からの陳情、懇留によるものだったとされる[4]

種子島の気候が茶の栽培に適していることに着目し[6]、退官後に帰郷した静岡県で茶農家に種子島への移住を勧めた[3][4]。まず、1912年(明治42年)に栗田茂三郎、松下助七、松下清作の3名が古田番屋峯(現・西之表市)に入植を行った[6]。以降も移住者はさらに増え、更に茶園を造成していった結果、種子島は鹿児島県下における茶業の先進地となっていった[3]

脚注

注釈

  1. ^ 大正12年に没したとする資料[3]もある。

出典

  1. ^ 種子島の西之表市長と菊川市長がお茶談議」『中日新聞』2022年4月26日。2025年4月6日閲覧。
  2. ^ a b c d 小笠町誌」国立国会図書館デジタルコレクション
  3. ^ a b c d e 63 牧野篤好と茶業の縁”. 市長独言(広報紙市長コラム). 西之表市. 2025年4月6日閲覧。
  4. ^ a b c d e f g h i j k l 井元正流「牧野 篤好(号 岳陽)」『種子島人列伝』南方新社、2003年、416-417頁。ISBN 978-4861240034 
  5. ^ a b 上屋久町郷土誌」国立国会図書館デジタルコレクション
  6. ^ a b 郷土教育資料鹿児島県の農林畜蚕水産業」国立国会図書館デジタルコレクション

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