片桐氏時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:26 UTC 版)
関ヶ原の戦いの翌慶長6年(1601年)に、片桐且元、貞隆兄弟が茨木城の城主となる。この時の状況を『茨木市史』では、片桐且元の本領は龍田城にあり、豊臣秀頼の補佐のため大坂城につめていたので、実質的には貞隆が城主ではなかったかと解説されている。 慶長19年(1614年)に方広寺鐘銘事件がおき、且元は秀頼の名代として仲裁に奔走するが、淀殿に疎んじられ、徳川方の内通者と疑いをもたれ、ついに豊臣家と袂を分かつことになる。 大坂夏の陣終了後、且元は4万石、貞隆は1万6400石を与えられそれぞれ竜田藩主、小泉藩主となったが、且元は慶長20年(1615年)5月27日、徳川家康の居城駿府城へ赴く途中に病死した。大坂城が落城した同年5月7日からわずか20日後のことであった。
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