濮上の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/04 03:36 UTC 版)
紀元前312年、魏を攻めた匡章の率いる斉軍と宋の連合軍だったが、魏の救援要請を受けた秦の恵文王は樗里疾と到満に楚の包囲を解かせ、魏の救援に向かわせた。 濮水にて対峙した魏・韓・秦の連合軍と斉・宋の連合軍であったが濮上の戦い(中国語版)と呼ばれるこの戦いは激戦の末に斉の軍は敗れ、斉の副将の田声は戦死(または虜囚となる)し、匡章もまた敗走した。 到満はこの後、軍を北上させ燕に到達し斉軍は燕から撤退せざるを得なくなり、この敗戦は燕の昭王による燕の国威復興と先の燕における戦いの報復を済西の戦いにて斉が受ける遠因となった。
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