清明曾を組織
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この時代は彼の政治的再出発の時代といえる。第1次近衛内閣がその年1937年(昭和12年)の6月に成立し、7月には戦時最初の特別議会が大陸の風雲急を告ぐる裡に召集された。その当時彼は同志の猪野毛利榮、簡牛凡夫、山道襄一等と謀って衆議院各派の有志を糾合し、政治家の再教育を施すこととなり、先ず国学の権威である今泉定助(後に大日本運動本部常任顧問となる)を煩わし、毎朝7時に東京市麹町富士見町の神宮奉斎曾本院に集合し、今泉から「國體原理」の講習を受けた。 今泉翁のこの「國體原理」は第6回に及んだ。聴講者は代議士を中心として68名にのぼった。その後彼の主唱で「清明曾」が組織され、世話人として前記猪野毛、簡牛、山道と彼を加えて4人がなった。この清明曾は最初、今泉翁の講明する「國體原理」を印刷してその冊子を頒布する会に止まっていたが、これは後に大日本運動の母体となった。
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