海野平合戦の影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 03:38 UTC 版)
武田氏の勢力は大きく後退し、佐久郡は山内上杉氏、小県郡は村上義清の支配することになる。諏訪頼重は独断で山内上杉氏との和睦を結び、領地の割譲を行った。天文10年6月に家督を継承した晴信は翌天文11年(1542年)6月に諏訪氏との同盟を破棄し、諏訪郡へ侵攻し諏訪氏を滅ぼしている。これは、諏訪頼重が山内上杉氏と領地分割を含む和睦を独断で行ったことを盟約違反と捉えたためであると考えられている。晴信はさらに信濃侵攻を進め、佐久郡を奪還する。天文17年(1548年)には小県郡へ侵攻し、村上氏と上田原の戦い、砥石崩れなど直接干戈を交えることになる。また、山内上杉氏とも敵対関係に入る。 上野へ逃れた滋野一族のうち、海野棟綱はその後消息不明となり、平安より続く名族滋野三家の海野氏は事実上滅亡した。 真田幸綱は信虎追放後に禰津氏の紹介により武田晴信に出仕し家臣となる。幸綱は山内上杉氏や村上氏との戦いで活躍し、村上領となっていた本領の真田郷を奪還している(異説あり)。
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