海外史書などによる記載
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:01 UTC 版)
414年、(応神天皇25年〔294年→414年〕)、先王(直支王)の薨去に伴い即位したが、王が若かったので木羅斤資(もくらこんし)の子木満致(もくまんち)が国政を行ったとある。(『日本書紀』) 416年には東晋によって「使持節・都督百済諸軍事・鎮東将軍・百済王」に冊封される。 417年7月、東北辺で沙口城を築くなど、再び高句麗への対抗の態勢を整えていった。 425年(南朝宋の太祖が元嘉2年)、百済王・映に対して年々の忠節を顕彰し、その後毎年朝貢してきたことを記す。(『宋書』百済伝) 428年、倭へ直支王妹の新斉都媛と7人の女性を遣わす。 429年、薨去。(『百済新撰』) 430年(元嘉7年)に「余毗(毗有王)に余映(久爾辛王)の爵号の継承を許した(『宋書』)」
※この「海外史書などによる記載」の解説は、「久尓辛王」の解説の一部です。
「海外史書などによる記載」を含む「久尓辛王」の記事については、「久尓辛王」の概要を参照ください。
- 海外史書などによる記載のページへのリンク