比志島義興
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/02/03 15:44 UTC 版)
比志島義興 | |
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時代 | 戦国時代、安土桃山時代 |
生誕 | 永禄4年(1561年) |
死没 | 慶長4年(1599年)6月 |
改名 | 義武、義興 |
別名 | 千代三郎丸(幼名)、彦太郎、左馬介(通称) |
主君 | 島津義久 |
氏族 | 比志島氏 |
父母 | 父:比志島義基、母:比志島国守の女 |
兄弟 | 義興、北原兼茂 |
妻 | 島津芳忠の女 |
子 | 義元 |
比志島 義興(ひしじま よしおき)は、薩摩国の武将で島津氏の家臣。
生涯
永禄4年に比志島義基の嫡子として誕生、天正3年(1575年)12月14日に元服を果たすと、天正6年(1578年)の耳川の戦いには父と共に参戦して功を為した。更に天正8年(1580年)の肥後国矢崎城攻めや天正10年(1582年)の水俣城攻め、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いでも軍功を為す。天正14年(1586年)6月の筑紫広門征伐のときは大将を務め、根白坂の戦いの際も父と共に功を上げた。
その後は文禄・慶長の役にも参加したが、慶長4年(1599年)に実弟の北原兼茂と叔父の比志島国家と共に上洛した際、程なくして伏見にて病死した。享年39。父の義基に先立つこと4年であった。
参考文献
- 『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13) (鹿児島県史料刊行委員会)
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