殷皇后
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殷皇后 | |
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南朝宋の皇后 | |
在位 | 元嘉30年(453年) |
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出生 | 不詳 |
死去 | 元嘉30年(453年) 建康 |
配偶者 | 劉劭 |
殷皇后(いんこうごう)は、南朝宋の皇帝を僭称した劉劭の皇后。
経歴
元嘉30年(453年)に劉劭とその一党がクーデターを起こして文帝を弑逆し、自ら皇帝に即位(僭称)した際、殷氏は皇太子妃から皇后に立后された。
しかし、江州にいた劉劭の弟で武陵王の劉駿はこれを認めず、大軍を率いて長江を下り、建康に攻め入って劉劭を殺した。この際に劉劭の一族もことごとく処刑されることになり、殷皇后もその対象とされた[1]。
処刑される直前に、殷皇后は「なぜ骨肉相争って、罪のない私までが殺されなければならないのか?」と叫ぶと、獄丞の江恪という人物が「皇后を受拝す、罪に非ずして何ぞ(貴方は皇后位を受けた。これが罪で無くてなんというのか)」と答えられ、処刑されたという[1]。
脚注
参考文献
- 殷皇后のページへのリンク