武懿宗
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武 懿宗(ぶ いそう、641年 - 706年)は、唐の外戚。武周の皇族。河内郡王。武則天の伯父の武士逸の孫にあたる。本貫は并州文水県[1]。
経歴
倉部郎中の武元忠の子として生まれた[2][3]。門蔭により太子右千牛備身を初任とした。沢州司法参軍・泉州司兵参軍・都水監丞を歴任し、六安県開国公に封じられた。三たび都水使者をつとめ、二たび司農寺卿をつとめ、一たび殿中監をつとめた[4]。天授元年(690年)、河内郡王に封じられた。洛州長史・右金吾衛大将軍を歴任した。万歳通天2年(697年)、契丹の孫万栄が河北に侵入すると、懿宗は武則天の命を受けて神丘道行軍大総管となり、契丹軍を討つことになった。軍が趙州に宿営したとき、契丹の将が冀州までやってきたと聞いて、懿宗は軍を棄てて逃走した。相州に撤退して、当時の人々にその臆病ぶりを嘲笑された。このため契丹軍は趙州に進軍して虐殺して去った。ほどなく懿宗は河北諸州の安撫を命じられた[2][3]。
先だって契丹軍に脅されて反乱に従った民衆で、後になって帰順してきた者がいたが、懿宗は反乱者と同罪として全て殺した。生きたまま腹をえぐってその胆を取り、その後に処刑をおこなった。流血が満ち溢れたが、懿宗は平然と談笑していた。かつて孫万栄の別帥の何阿小が冀州を攻め落としたとき、また多くの士女を殺害した。当時の人は何阿小と河内郡王(武懿宗)を両何と呼び、「ただこの両何、殺人最も多し」と語った。懿宗はまた天授年間以来、武則天の意を受けて王公や大臣の多くを罪に陥れたので、当時の人は酷吏の周興や来俊臣に次ぐ者とみなした。神龍元年(705年)、耿国公に降封された。太子詹事となり、懐州刺史に転じた[2][3]。神龍2年(706年)6月18日、長安の延寿里の邸で死去した。享年は66[5]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
- 『唐代墓志彙編続集』上海古籍出版社、2007年。 ISBN 978-7-5325-2781-6。
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