武光の死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)
大宰府を追われた懐良親王と武光であったが、高良山は要害の地であり、いかに大軍を擁する今川探題とはいえ容易に攻める事は出来なかった。また武光も武政や武安に命じて筑後川北岸に陣を敷いた探題軍を攻撃させたが、筑後川を渡河する事が叶わず、両軍は膠着状態に陥った。この高良山攻防戦の最中の文中2年/応安6年(1373年)11月16日に武光は死去したと伝わる。没時の年齢は不明であるが、一説に52歳であったと言われている。 武光の死後、嫡男・菊池武政が菊池氏の惣領となったが、わずか半年後の文中3年/応安7年(1374年)5月26日に死去し、まもなく高良山も陥落するなど、以後の征西府の衰退は決定的な状況となっていった。
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