権徳輿とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 権徳輿の意味・解説 

権徳輿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/05 09:27 UTC 版)

権 徳輿(けん とくよ、759年 - 818年)は、唐代文人官僚政治家は載之[1][2]本貫秦州隴城県[3]

経歴

権皋の子として生まれた。4歳で詩を作ることができた。7歳で父の喪に服し、孝行で知られた。15歳のときに文章数百篇を作り、『童蒙集』10巻を編纂した。韓洄が淮南黜陟使に赴任すると、徳輿は召し出されて従事となった。秘書省校書郎として試用された。貞元初年、江西観察使の李兼の下で判官となった。監察御史に転じた。江西から離任すると、杜佑・裴冑が徳輿を招請したいという上表が同日に長安に届いた。徳輿は徳宗に召し出されて太常博士となり、左補闕に転じた。貞元8年(792年)、関東・淮南・浙西の州県で洪水が起こると、徳輿は救恤の詔を降すよう求める上疏をおこなった。裴延齢の推挙により判度支となった。貞元9年(793年)、判度支のまま、司農寺少卿から戸部侍郎に任じられた[4][2]

貞元10年(794年)、起居舎人に転じた。この年のうちに、知制誥を兼ねた。職はもとのまま、駕部員外郎・司勲郎中に転じた。中書舎人となった。貞元17年(801年)冬、本官のまま知礼部貢挙をつとめた。翌年、礼部侍郎に任じられた。戸部侍郎に転じた。元和初年、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、太子賓客に転じ、再び兵部侍郎となった[5][6]。元和4年(809年)、太常寺卿に転じた[7]

元和5年(810年)冬、宰相の裴垍が病に臥せると、徳輿は礼部尚書・同中書門下平章事に任じられ、李藩とともに宰相となった。河中節度使の王鍔が来朝し、同平章事を加官するよう求めてくると、徳輿は李藩に次いで、これを退けるよう求める上奏をおこなった[8][9]

元和8年(813年[10]、徳輿は礼部尚書のまま、宰相から退任した。ほどなく検校吏部尚書として東都留守となり、扶風郡公に封じられた。後に再び太常寺卿に任じられ、刑部尚書に転じた。新刪定格勅30巻を奏上した。元和11年(816年[11]、検校吏部尚書・山南西道節度使として興元府に出向した。元和13年(818年)8月、病にかかり、長安に帰る許しを得て、その道中に死去した。享年は60。尚書左僕射の位を追贈された。は文といった。文集50巻があった[12][13]

子の権璩は、中書舎人となった[12]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 4001.
  2. ^ a b 新唐書 1975, p. 5076.
  3. ^ 新唐書 1975, p. 5566.
  4. ^ 旧唐書 1975, p. 4002.
  5. ^ 旧唐書 1975, p. 4003.
  6. ^ 新唐書 1975, pp. 5077–5078.
  7. ^ 旧唐書 1975, p. 427.
  8. ^ 旧唐書 1975, pp. 4003–4004.
  9. ^ 新唐書 1975, p. 5078.
  10. ^ 旧唐書 1975, p. 445.
  11. ^ 旧唐書 1975, p. 457.
  12. ^ a b 旧唐書 1975, p. 4005.
  13. ^ 新唐書 1975, p. 5079.

伝記資料

参考文献




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  権徳輿のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「権徳輿」の関連用語

1
18% |||||

2
16% |||||

3
6% |||||

4
2% |||||

5
2% |||||

権徳輿のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



権徳輿のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの権徳輿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS