権徳輿
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権 徳輿(けん とくよ、759年 - 818年)は、唐代の文人・官僚・政治家。字は載之[1][2]。本貫は秦州隴城県[3]。
経歴
権皋の子として生まれた。4歳で詩を作ることができた。7歳で父の喪に服し、孝行で知られた。15歳のときに文章数百篇を作り、『童蒙集』10巻を編纂した。韓洄が淮南黜陟使に赴任すると、徳輿は召し出されて従事となった。秘書省校書郎として試用された。貞元初年、江西観察使の李兼の下で判官となった。監察御史に転じた。江西から離任すると、杜佑・裴冑が徳輿を招請したいという上表が同日に長安に届いた。徳輿は徳宗に召し出されて太常博士となり、左補闕に転じた。貞元8年(792年)、関東・淮南・浙西の州県で洪水が起こると、徳輿は救恤の詔を降すよう求める上疏をおこなった。裴延齢の推挙により判度支となった。貞元9年(793年)、判度支のまま、司農寺少卿から戸部侍郎に任じられた[4][2]。
貞元10年(794年)、起居舎人に転じた。この年のうちに、知制誥を兼ねた。職はもとのまま、駕部員外郎・司勲郎中に転じた。中書舎人となった。貞元17年(801年)冬、本官のまま知礼部貢挙をつとめた。翌年、礼部侍郎に任じられた。戸部侍郎に転じた。元和初年、兵部侍郎・吏部侍郎を歴任し、太子賓客に転じ、再び兵部侍郎となった[5][6]。元和4年(809年)、太常寺卿に転じた[7]。
元和5年(810年)冬、宰相の裴垍が病に臥せると、徳輿は礼部尚書・同中書門下平章事に任じられ、李藩とともに宰相となった。河中節度使の王鍔が来朝し、同平章事を加官するよう求めてくると、徳輿は李藩に次いで、これを退けるよう求める上奏をおこなった[8][9]。
元和8年(813年)[10]、徳輿は礼部尚書のまま、宰相から退任した。ほどなく検校吏部尚書として東都留守となり、扶風郡公に封じられた。後に再び太常寺卿に任じられ、刑部尚書に転じた。新刪定格勅30巻を奏上した。元和11年(816年)[11]、検校吏部尚書・山南西道節度使として興元府に出向した。元和13年(818年)8月、病にかかり、長安に帰る許しを得て、その道中に死去した。享年は60。尚書左僕射の位を追贈された。諡は文といった。文集50巻があった[12][13]。
子の権璩は、中書舎人となった[12]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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