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楠瀬熊治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 13:41 UTC 版)

楠瀬熊治

楠瀬 熊治(くすのせ くまじ、慶応元年5月15日[1]1865年6月8日) - 昭和8年(1933年6月17日[2])は、日本の海軍軍人火薬学者。最終階級は海軍造兵中将従三位工学博士東京帝国大学名誉教授。

人物

高知県に沢村辰吾の三男として生まれ、楠瀬好静の養子となった[1]1891年明治24年)に東京帝国大学工科大学火薬学科を卒業した後、フランスに留学した[1]1894年(明治27年)に帰国後、海軍少技士となった[1]1904年(明治37年)、造兵少監となり、翌年に造兵監督官としてイギリスに出張[1]1907年(明治40年)、造兵中監に昇進し、翌年に帰国[1]1911年(明治44年)、造兵大監となり、下瀬火薬製造所長、造兵廠火薬部長、海軍大学校教官などを務めた[1]1915年大正4年)、海軍技術本部技術会議員となり、翌年には造兵総監に昇進した[1]1921年(大正10年)に造兵中将に任じられ[1]海軍火薬廠長を務めた[3]1924年(大正13年)に予備役に編入[1]

また1898年(明治31年)より東京帝国大学工科大学講師も務め、1902年(明治35年)に教授に就任し、火薬学講座を担当した[1]。翌年には工学博士号を受領[1]1923年(大正12年)、東京帝国大学教授を退官し、名誉教授となった[1]。墓所は多磨霊園

家族

長男好毅の岳父に田内三吉。長女芳子は木村健二郎の妻。

栄典

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 大日本博士録 工学博士pp.77-78 1930.
  2. ^ 『官報』第1951号、昭和8年7月4日。
  3. ^ 最新業界人事盛衰録 1931.
  4. ^ 『官報』第1825号「叙任及辞令」1918年9月2日。
  5. ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。

参考文献

  • 井関九郎『大日本博士録 第五巻』発展社、1930年。 
  • 通俗経済社編『最新業界人事盛衰録』通俗経済社、1931年。 



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