根井行親とは? わかりやすく解説

根井行親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/08/20 02:34 UTC 版)

 
根井行親
本朝英雄鏡 歌川芳員
時代 平安時代末期
生誕 不明
死没 元暦元年1月20日1184年3月4日)?
別名 四郎・大弥太郎
主君 源義仲
氏族 滋野姓根井氏
父母 父:望月国重
兄弟 望月行重、望月国親、塩川重長、望月重安、
小田切国綱、行親
行長、行直、八嶋行忠、楯親忠
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根井 行親(ねのい ゆきちか)は、平安時代末期の武将源義仲の家臣で、俗に言う義仲四天王の1人。

行親の生まれた望月氏滋野氏の庶流。滋野氏嫡流の海野幸親(滋野行親)と同一人物とする説もある。

保元元年(1156年)の保元の乱では源義朝に従い、活躍したという。

治承4年(1180年信濃国小県郡丸子の依田城で挙兵して以後、義仲に従い各地に転戦、養和元年(1181年)9月水津の合戦で平通盛経正らを破る。

元暦元年(1184年)の宇治川の戦いでは、義仲の命を受け、子・楯親忠源義広らと共に300余騎で宇治の防衛に当たったが[1]、2万5千騎の源義経軍を防ぎきれず宇治川を突破された。この際、一族の武将らに前後して敗死したとされている。この戦いでは先陣を焦った頼朝方の武将畠山重忠の馬(磨墨)を射たという。

同年1月26日、義仲や今井兼平、高梨忠直らと共に東洞院の北にある獄門の木に梟首された[2]

長野県佐久市には、行親の供養塔と伝わる多層塔が現存する[3]

脚注

  1. ^ 『史料綜覧』第3編之903 703頁
  2. ^ 『史料綜覧』第3編之903 704頁
  3. ^ 正法寺多層塔” (PDF). 佐久市教育委員会. 2016年9月19日閲覧。

出典

  • 『後鳥羽天皇紀』(元暦元年正月上 一・元暦元年正月下 二)
  • 源平盛衰記
  • 吾妻鏡




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