栗橋河岸
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「河岸」も参照 栗橋河岸の成立は、『徳川禁令考』によると、元禄3年(1690年)との記述がある。日光・奥州街道(陸羽街道)と利根川が交差しており、栗橋河岸は栗橋宿の東方、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣にあり、対岸に中田宿が位置していた。栗橋河岸の呼称は、明和・安永〜文化年間にかけて栗橋宿河岸であったが、寛政以降には栗橋河岸となった 天保14年(1843年)の記録によると、栗橋河岸の舟数は公儀渡し舟2艘、茶舟5艘、馬舟2艘があった。利根川筋で「輸送物資の積み降ろしをするため、その際に輸送物資の確認をするために関所や番所が併設された」河岸場には、栗橋の他、関宿があった。
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栗橋河岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 01:44 UTC 版)
栗橋河岸の成立は、『徳川禁令考』によると、元禄3年(1690年)との記述がある。日光・奥州街道(陸羽街道)と利根川が交差しており、栗橋河岸は栗橋宿の東方、利根川右岸、利根川と権現堂川との分流点である分岐部近隣にあり、対岸に中田宿が位置していた。栗橋河岸の呼称は、明和・安永~文化年間にかけて栗橋宿河岸であったが、寛政以降には栗橋河岸となった 天保14年(1843年)の記録によると、栗橋河岸の舟数は公儀渡し舟2艘、茶舟5艘、馬舟2艘があった。利根川筋で「輸送物資の積み降ろしをするため、その際に輸送物資の確認をするために関所や番所が併設された」河岸場には、栗橋の他、関宿があった。
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