柴紹とは? わかりやすく解説

柴紹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/01/11 02:21 UTC 版)

柴紹

柴 紹(さい しょう、生年不詳 - 638年)は、中国軍人は嗣昇。本貫晋州臨汾県の鉅鹿郡公柴慎の子。妻は唐の高祖李淵の三女の平陽公主。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。

経歴

幼少のころから身軽で荒々しく、武力を有し、任侠として知られた。隋末に太子千牛備身に任ぜられた。

大業13年(617年)、李淵が太原で起兵すると、間道を通って太原に赴いた。ときに李淵の子の李建成李元吉河東から太原に向かっていたのに遭遇した。李建成は「手配書が回るのが早く、隋の官吏に逮捕される危険がある。いまは身近な小賊に身を投じたほうが、自分の安全が図れるだろう」と言った。柴紹は「いけません。賊が君を唐公の子と知れば、捕らえて功績とし、無為に死ぬだけです」と言った。柴紹が李淵のもとに合流すると、右領軍大都督府長史に任ぜられ、唐軍が太原から出発すると、馬軍総管を兼領した。先んじて霍邑城下にいたり、宋老生の形勢を偵察した。「老生は匹夫の勇の持ち主で、我が軍が到着すれば、必ず出戦しますから、戦ってとりこにすることがてきましょう」と李淵に報告した。はたして宋老生は出戦してきたので、柴紹は力戦して功績を挙げ、臨汾を下し、絳郡を平定するのに、いずれも先頭で敵陣を陥れたので、右光禄大夫に任ぜられた。隋将の桑顕和が渡河してくると、柴紹は背後からこれを攻撃して破った。諸将とともに長安に進軍した。

柴紹 對開幕府

武徳元年(618年)、左翊衛大将軍に累進し、臨汾郡公に封ぜられた。李世民に従って薛仁杲・宋金剛・王世充竇建徳らを討伐した。霍国公に封ぜられ、実封千二百戸を賜り、右驍衛大将軍に転じた。吐谷渾党項が辺境に侵入すると、命を受けてこれを討った。敵は高所を占めて柴紹の軍中に矢を雨のように射こんだ。柴紹は人に胡琵琶を弾かせ、二女子に舞いを舞わせたところ、敵は疑心におちいって矢を射るのをやめて様子を見た。柴紹は敵陣がゆるんだのを見ると、精鋭の騎兵を率いて後方からこれを攻撃し、潰滅させた。

貞観元年(627年)、右衛大将軍となった。貞観2年(628年)、梁師都を平定すると、左衛大将軍に転じた。

貞観7年(633年)、鎮軍大将軍を加えられ、右驍衛大将軍を代行し、譙国公に改封された。

貞観12年(638年)、病にたおれて、太宗の見舞いを受け、まもなく亡くなった。荊州都督を追贈され、襄とされた。

子に柴哲威・柴令武があった。

柴令武は太僕少卿・衛州刺史を歴任したが、房遺愛らとともに荊王李元景の擁立を企て、事が漏れて刑死した。

柴哲威は安西都護を務めたが、弟の柴令武に連座して嶺南に流された。後に許されて交州都督を務めた。

評価

劉昫:殷嶠、劉政会、柴嗣昌は三人そろって太原におり、真っ先に挙兵に参画した。微賎の身から次第に顕職に上り、終始一貫してその任を全うした。[1]

欧陽脩:帝王が興隆せんとする時は、その霊威と気迫が万物を動かし人々を悟らせるものがある。故に志ある士は皆こぞって躍り上がり付き従い、あたかも母屋や梁が大いなる屋舎を成すように、それぞれが倒れ植わり、各々その役割を安んじて遺材なく発揮する。これぞ諸将の謂いであろう。しかも彼らは皆礼法をもって自らを全うできた。賢明であったと言えるだろう。[2]

人物・逸話

唐の柴紹の弟がおり、材力に優れ、身軽で敏捷、身を躍らせて上るや、真っ直ぐに飛ぶが如く、十数歩もしてやっと止まる。太宗は趙公・長孫無忌の鞍覆いを取るよう命じ、事前に無忌に知らせて守りを固めさせた。その夜、鳥の如きものが屋敷内に飛び込み、両脇の革帯を切り取って去り、追いかけても及ばなかった。また丹陽公主の金象嵌の箱枕を盗むよう命じると、内房に飛び込み、手で土を公主の顔に付け、公主が顔を上げた隙に他の枕とすり替えて去った。夜明けになってようやく気づいた。かつて吉莫靴を履いて磚城を駆け上り、女牆に至るまで手で攀じることなく、また足で仏殿の柱を踏み、簷頭まで登り、椽を掴んで上へ翻った。百尺楼閣を越えても、少しも障害になるものはなかった。太宗は彼を珍しがり、「この者は都に留めておくことはできない」として地方官に赴任させた。当時の人々は彼を「壁龍」と呼んだ。[3]

刀削麺は、唐代の皇帝の娘婿である柴紹が考案したと言い伝えられています。柴紹は戦場に長年従軍し、しばしば適切な調理器具がなかったため、小さな軍刀を使って麺を削る方法を編み出しました。この技法は今日まで受け継がれています。柴紹が唐代建国期の皇帝の娘婿であったことから、刀削麺は「駙馬麺(フーマン)」とも呼ばれています。[4]

後世の創作における柴紹

元雑劇『立功勲慶賞端陽』では、柴紹が主要人物として描かれている。この雑劇は、柴紹が吐谷渾討伐の命を受け、凱旋して朝廷に戻ると、房玄齢が勅命により慶功宴を設けるという物語である。宴席で、李建成と李元吉は納得せず、柴紹と武芸を競って功績を争おうとし、端午の節句に「射柳(柳の枝を射る競技)」と「捶丸(球を打つ競技)」で勝負し、勝者は褒賞を受けるが、敗者は顔に朱墨を塗られることを約束した。柴紹は帰宅後、悶々としていたが、夫人(平陽公主であるはず)が理由を尋ね、悩む必要はなく必ず勝てると説得する。柴紹の友人である馬三保と段志賢は、慎重に臨むよう忠告した。端午の節句の当日、出場する将軍たちは御苑に集まった。柴紹と尉遅恭、馬三保、段志玄は勝利を収めた一方、李建成、李元吉、李道宗は敗北した。房玄齢は三人の顔に朱墨を塗るよう命じ、勝者には黄金百両を賜り、その後宴を大々的に開いて端午を祝った。[5]

柴嗣昌(繡像瓦崗寨演義傳)

明清の演義小説では、柴紹の物語は、李淵が彼を皇帝の娘婿として迎え平陽公主と結婚させる場面に焦点が当てられることが多い。『隋唐演義』が最も詳細に描写しており、李淵が家族を連れて永福寺を訪れた際、寺内を散策中に屏門に「宝塔凌雲一目江天這般清淨、金燈代月十方世界何等虚明」という二句の詩が記されているのを見つける。それが「汾河柴紹熏沐手拝書」と署名されていたため、李淵は柴紹について尋ね始めた。 原文には以下のような描写がある。「灯りの下に一人の美少年が座り、顔は白粉を塗ったように白く、唇は朱を塗ったかのように赤い。文机の上に宝剣を横たえ、朗々と誦じているのは孔孟の儒書ではなく、孫呉の兵法であった。読み終えると剣を抜いて舞い始め、傍若無人の様子を示した」、「眉は偃月の如く飄々とし、目は暁の星のように炯々と輝く。鼻は懸けた胆の如く、歯は貝のように整然と並ぶ。神は爽やかで氷の心・玉の骨、気は昂然として虎の歩み・龍の行き。鋒は蔵せられ鍔は斂められて、真に未だ遇わざる公卿の風あり、武に善く文に能くして、将来の英傑たり」 李淵は夫人や寺の住職と相談し、娘(平陽公主)を柴紹に嫁がせようと決める。平陽公主はまず柴紹の能力を試すことを決め、側近に土山で号令を執らせ、配下の女たちに単刀と紅い絹の索を持たせて陣を構えさせ、柴紹に陣を破らせようとする。柴紹は次々と「長蛇陣」「五花陣」「六花陣」を見破り、従者の柴豹と共に難なく陣を破り、最終的に公主とめでたく婚姻を結ぶ。 同様の展開は『隋史遺文』や『説唐』にも見られる。[6]

『説唐全伝』によれば、柴紹は上界の金府星君が下界に降りた存在であり、承福寺で平陽公主と夫婦となった。その後、長安で灯籠見物をした際、宇文恵及の役所前の鞠場で大いに手腕を発揮した。秦叔宝らに推されて場に上がると、自ら二人の女性の蹴鞠の達人を招き、厚い褒美を約束した。その間、彼は見事な技を披露し、彩門を矢のように蹴り抜き、場内の喝采を浴び、絶えず投げ込まれる色絹や銀細工の花を獲得した。[7]

柴嗣昌(說唐演義全傳)

宇文公子が民娘を強奪したことを知ると、彼は進み出て皆と共に不正に立ち向かった。宇文公子が手下を率いて現れると、柴紹は両手に剣を握り、秦叔宝・王伯当ら豪傑と共に「五馬破曹」を名乗り急襲を仕掛けた。乱戦の中で宇文府の家来たちを討ち倒し、秦叔宝が宇文公子を打ち倒した後は共に包囲を突破した。城門に逃げ着いた時、柴紹は冷静に城門の制圧を助け、仲間の城外脱出を確保した。最後に承福寺に到着すると、彼は叔宝に唐公の返書を待つよう留め、慎重で行き届いた性格を見せた。事が終わり仲間と別れると、柴紹は悠然と去って行ったのである。[8]

第四十二回で、柴紹は李元覇を出迎えて共に帰途に就いたが、道中突然の雷雨に襲われる。元覇は天を恨んで金槌を振り上げたが、逆に落下したその槌に頭を直撃されて絶命した。柴紹は驚愕と悲痛の中で救助を試みるも、猛烈な狂風に阻まれる。雨風が収まった後、元覇の残された甲冑のみを見て慟哭し、遺品を丁寧に収めると、玉璽と諸勢力からの降伏文書を携え、長安に戻って復命の任を果たした。[9]

第四十四回で、尉遅恭は三つの関を一日で奪い、八つの砦を一晩で陥落させ、李建成と李元吉を大敗させて敗走させた。柴紹が軍を率いて白壁関に到着し、戟を手に尉遅恭と二十合ほど戦ったが、尉遅恭の一鞭が肩に命中し、馬から転落した。兵士たちが急いで救出したものの、すでに息絶えていた。[10]

戯曲の中の柴紹

柴紹 清末 京劇一百人物像 冊 絹本

京剧『平陽公主』:唐公・李淵は賢才を募るため「招賢館」を設け、各地の英雄を集めた。臨汾の勇士・柴紹は従僕の馬三保を連れてこれに投じる。李淵はその才覚を気に入り、娘の昭娘を嫁がせようと考えた。昭娘は兵法に通じ、婿選びは極めて厳しい。李淵は弟の道宗と相談し、柴紹を庭園に招いて夜宴を開くよう仕組んだ。昭娘は娘子軍を率いて陣を構え武勇を示し、李淵は柴紹に彼女と剣術で勝負させた。両者伯仲する中、昭娘はさらに柴紹を陣中に導き、矢尻を外して彩球(飾り玉)を付けた矢を射かける。柴紹は球を受け止め、これを聘礼(結納)として昭娘と婚礼を挙げた。[11]

伝記資料

  • 旧唐書』巻58 列伝第8「柴紹伝」
  • 新唐書』巻90 列伝第15「柴紹伝」

脚注

  1. ^ 舊唐書/卷58 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年12月10日閲覧。
  2. ^ 新唐書/卷090 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年12月10日閲覧。
  3. ^ 朝野僉載/卷六 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年12月10日閲覧。
  4. ^ 舌尖上的山西|寻味“刀削面””. 微信公众平台. 2025年12月10日閲覧。
  5. ^ 《庆赏端阳》 - 中国百科网”. www.zgbk.com. 2025年12月10日閲覧。
  6. ^ 隋唐演義/006 - 维基文库,自由的图书馆” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年12月10日閲覧。
  7. ^ 第十二回 李靖风鉴识英雄 公子球场逞华丽-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2025年12月10日閲覧。
  8. ^ 第十三回 长安城观灯玩月 恶公子强暴宣淫-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2025年12月10日閲覧。
  9. ^ 第四十二回 元霸雷轰归神位 咬金斧劈老君堂-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2025年12月10日閲覧。
  10. ^ 第四十四回 尉迟恭打关劫寨 徐茂公访友寻朋-正文-说唐前传-未删节减足本完整版白话全本全文翻译-国学典籍网”. ab.newdu.com. 2025年12月10日閲覧。
  11. ^ 平阳公主” (中国語). 戏曲百科 (2020年12月9日). 2026年1月11日閲覧。




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