松平忠郷_(深溝松平家)とは? わかりやすく解説

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松平忠郷 (深溝松平家)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/13 09:30 UTC 版)

 
松平 忠郷
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 正徳5年(1715年
死没 寛政元年6月25日1789年7月17日
別名 通称:政之助、伊織、庄九郎、法名:良勇
墓所 東京都港区玉窓寺[1]
官位 従五位下、対馬守
幕府 江戸幕府 書院番徒頭目付船手頭勘定奉行大目付旗奉行
主君 徳川吉宗家重家治家斉
氏族 五井松平家深溝松平家
父母 父:松平忠一、母:松平忠充の娘
養父:松平忠全
兄弟 忠英、女子(堀親敷妻)、忠至、忠郷、織田信方、女子(倉橋久雄妻→夏目保信妻)、女子(佐橋佳栄妻)、一則
先妻:稲垣種信の娘
後妻:小笠原信重の娘
後々妻:大岡忠恒の養女(大岡忠利の娘)
養子:忠勧牧野貞通十七男)
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松平 忠郷(まつだいら たださと)は江戸時代中期から後期の旗本

来歴

五井松平家・松平忠一の三男として生まれ、深溝松平家の松平忠全の養子となる。元文2年(1737年)6月28日、将軍・徳川吉宗御目見し、元文5年(1740年)11月2日に養父・忠全の遺跡を継ぐ。寛保2年(1742年)7月3日に書院番となり、宝暦6年(1756年)10月15日に徒頭に移り、12月18日に布衣の着用を許される。宝暦10年(1760年)6月1日に目付となり、明和2年(1765年)12月11日より船手頭を兼任する。明和5年(1768年)5月26日に勘定奉行となり、12月18日に従五位下対馬守に叙任された。安永2年(1773年)12月5日、大目付に就任[2]

天明4年(1784年)3月24日、江戸城内で佐野政言田沼意知に斬りつけた際、多くの人が居合わせる中、70歳の老齢ながら真っ先に政言を取り押さえた。この功績により、4月7日に上野国新田郡の200石を加増され、所領が1200石となった[2]

天明7年(1787年)8月8日に旗奉行となる。寛政元年(1789年)6月25日、75歳で死去[2]

脚注

  1. ^ 『群馬県史 第2巻』群馬県教育会、1927年、p.279。
  2. ^ a b c 『寛政重修諸家譜 第1輯』国民図書、1922年、p.164。



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