松平信宝 (三河吉田藩主)とは? わかりやすく解説

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松平信宝 (三河吉田藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/20 07:21 UTC 版)

 
松平信宝
時代 江戸時代後期
生誕 文政7年9月10日1824年10月31日[1]
死没 天保15年10月17日1844年11月26日
改名 長之助(幼名)→信宝
戒名 寛量院殿義関文礼大居士
墓所 埼玉県新座市野火止の平林寺
官位 従五位下、隼人正、伊豆守
幕府 江戸幕府
三河吉田藩
氏族 大河内松平家
父母 父:松平信順、母:綾瀬(金子氏、凉松院)
兄弟 信宝、章次郎、某、徽(松平康寿縁女)、令、綜、貞(信宝養女)、愛(戸沢正実室、後松平直巳室)
正室:較姫阿部正粹の娘)
養子:信璋松平信璋正室、のち信璋養女)
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松平 信宝(まつだいら のぶたか/のぶとみ)は、三河吉田藩の第5代藩主。松平伊豆守大河内松平家9代。

生涯

文政7年(1824年)、松平信順の長男として江戸谷中下屋敷で生まれる。父の正室に子がなかったため、文政9年(1826年)11月7日に嫡子となる。文政11年(1828年)11月23日、信宝と名乗る。天保8年(1837年)3月15日、初めて将軍家斉・世子家慶に拝謁する。同年12月16日、従五位下・隼人正に叙任される。天保12年(1841年)7月、病身の信順の名代として吉田城へ入る。帰国中に鳳来山東照宮に参詣するなどし、天保13年(1842年)7月に江戸へ参勤する。

同年12月13日に信順が隠居し、家督を相続して呉服橋内上屋敷に移る。翌14日、伊豆守と改める。天保14年(1843年)4月3日、備後福山藩世嗣・阿部正粹の娘を娶る。同年6月に帰国の暇を賜るが、病気により2度の延期願いを出す。天保15年(1844年)3月2日、隠居していた信順が病死する。その後、信宝自身も病に倒れ、帰国することなく10月17日に死去する(表向きには11月20日死去と公表)。享年21。跡継ぎがいなかったため、妹の貞姫を養女とし、分家の旗本松平信敏の子の信璋を婿養子に迎えた[2]

系譜

父母

  • 松平信順(父)
  • 綾瀬、金子氏、凉松院(母) - 側室

正室

養子女

脚注

  1. ^ 『豊橋市史』第2巻では文政9年生まれとし、丈夫届提出時に年齢(官年)を水増ししたと記しているが、実年齢を表記している『大河内家譜』では文政7年生まれとしており、執筆者が見間違えたものと思われる。
  2. ^ 松平伊豆守家は信綱以来直系男子による相続が行われてきたが、信宝の死去によって途絶えた。



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