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松井卓治

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/15 02:30 UTC 版)

松井卓治
まつい たくじ
生年月日 1888年6月6日
出生地 日本 長野県下伊那郡飯田町
(現長野県飯田市)
没年月日 1978年
出身校 旧制千葉医学専門学校卒業
(現千葉大学)
前職 長野県司法保護司選衝委員
称号 勲五等双光旭日章
紺綬褒章

当選回数 4回
在任期間 1955年5月1日 - 1968年10月27日
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松井 卓治(まつい たくじ、1888年明治21年)6月6日[1][2] - 1978年(昭和53年)[3])は、大正から昭和期の医師、政治家。長野県飯田市長。

来歴

長野県下伊那郡飯田町[3](現飯田市)で、松井敦、光子の息子として生まれた[1]。旧制飯田中学(現長野県飯田高等学校)を経て[1][2][3]、1926年(大正元年)10月、旧制千葉医学専門学校を卒業[1][2][3]。同年、一年志願兵として歩兵第60連隊に入隊し、2年後に陸軍三等軍医として除隊[1][2][3]。東京江東病院小児科医局に勤務する[1][2]。1916年(大正5年)飯田に戻って兄が経営する医院に小児科医として勤め、1930年(昭和5年)兄の死去により医院を承継し、内科小児科医院を経営した[1][2]。1942年(昭和17年)から1947年(昭和22年)まで飯田市医師会長に在任[1][2][3]。1948年(昭和23年)長野県公安委員、1951年(昭和26年)同委委員長、長野県司法保護司選衝委員などを歴任した[1][2][3]

1955年(昭和30年)5月、飯田市長選挙に当選し、1968年(昭和43年)10月まで務めた[1][2][3]。長野県市長会長も務めた[1][3]。在任中は昭和の大合併による下伊那郡7村との新設合併を実現した[2]

栄典

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m 『長野県人名鑑』492頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『日本の歴代市長 第2巻』267頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j 『長野県歴史人物大事典』650頁。

参考文献

  • 『長野県人名鑑』信濃毎日新聞社、1974年。
  • 『日本の歴代市長 第2巻』歴代知事編纂会、1984年。
  • 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。



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