野原文四郎
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 07:33 UTC 版)
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野原 文四郎(のはら ぶんしろう、1871年(明治4年)10月21日[1] - 1951年(昭和26年))は、日本の政治家、長野県飯田市長。旧姓は高坂。
来歴
長野県上伊那郡大草村(現中川村)生まれ。幼名は胤雄。飯田で酒造業と綿屋を営む旧家の野原文四郎家の養子となり、明治29年(1896年)に家督を相続する[2]。野原家は織田氏家臣の武士であったが、本能寺の変後に伊那谷に移り、本家の野原半三郎家(現在の綿半ホールディングス)ともに飯田城下の御用商人、町役人を務め、明治維新後は金物商に転じた[3]。
同35年(1902年)から飯田町会議員を2期務め[2]、学校新築の経費調査委員や野底川の入会権に関する委員などを務める。
昭和12年(1937年)の飯田市発足に際して、議会の推挙により初代市長となる。就任後間もなく日中戦争が勃発し、飯田市警防団や飯田市国防婦人会が結成されるなどの戦時体制下で、地方自治は制約を受け、政府の直接指揮下に置かれた。
その他、飯田土地建物の社長や飯田銀行取締役、三信鉄道取締役など歴任した。
脚注
- ^ 帝国自治協会 1938, 33頁.
- ^ a b 「日本の歴代市長」p.265
- ^ 『47都道府県名門名家百科』127頁。丸善出版 2020年
参考文献
- 帝国自治協会 『全国市長銘鑑 : 自治制実施五十周年記念』 帝国自治協会、1938年 。
- 『日本の歴代市長 第2巻』 歴代知事編纂会、1984年
- 『長野県歴史人物大事典』郷土出版社、1989年。
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