村人の介抱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/24 00:00 UTC 版)
村人総出の介抱の結果、数日後に修行僧は目を覚まし、小さい声で「ありがとう」と何度も感謝の言葉を発し涙を流したという。しかし、あまりにも深い傷を負っていたため、目が覚めてから数日後、危篤状態になる。しかし修行僧はこう言った。以下は史料からの引用。 いずくとも知れぬ、かかる不遇の身の某(それがし)を、御部落の方々は、親身も及ばぬ看護をして下され感謝の言葉も御座らぬ。この御恩報じたいは山々なれど、もう余命はいくばくもあり申さぬ。このうえはせめて今後樋の口沢に火難の起こらぬよう、念力をもって草葉の陰から御祈り申す。 --歌津町史 4.民俗 10.口碑・伝承 3.坊ァ墓 以下は現代訳。 「死ぬ間際に人の情の暖かさを知った。お礼はしたいが、残された命はわずかしかない。せめて全身全霊でこの樋の口に火災が起きぬよう守り続ける。」 こう言うと念仏を唱えながら亡くなった。そこで村人がねんごろに弔い供養のために建立したのがこの地蔵である。僧のおかげか樋の口に火災は起きていない一方、面白半分に蔦を切った樵のいる小泉は火災が絶えなかったという。
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