李尚隠
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李 尚隠(り しょういん、666年 - 740年)は、唐代の官僚。本貫は潞州銅鞮県[1]。
経歴
弱冠にして明経に及第し、下邽県主簿に任じられた。姚珽が同州刺史となると、尚隠はかれに礼遇された。神龍2年(706年)、左台中丞の侯令徳が関内道黜陟使となると、尚隠はかれを補佐した。景龍3年(709年)、左台監察御史となった。ときに中書侍郎・知吏部選補の崔湜と吏部侍郎の鄭愔が同時に選挙をつかさどり、権勢におもねって、3年のあいだ不適切な人物を任用したため、人々は嘆き恨んだ。ほどなくふたりは相次いで宰相となった。尚隠は同僚の御史の李懐譲とともにふたりを弾劾し、崔湜らは獄に下されて取り調べられ、左遷された。また睦州刺史の馮昭泰が桐廬県令の李師旦ら200家あまりを誣告する上奏をおこない、宗教反乱を計画していたと称したので、勅命により御史がこれを調査することになった。御史たちは馮昭泰の頑固さをはばかって、みな病と称して行こうとしなかった。尚隠は下向して捜査し、李師旦らの冤罪を晴らした[1][2]。
まもなく崔湜や鄭愔らが再び任用されると、尚隠は殿中侍御史から伊闕県令に出された。崔湜らが死去すると、尚隠は定州司馬から吏部員外郎に抜擢された。将作監少匠として橋陵の造営を監督し、高邑県男に封じられた。御史中丞に累進した。御史の王旭が巨万の財産を不正に蓄えていたことを暴き、罪に落とした。ほどなく尚隠は兵部侍郎に進んだ。開元7年(719年)、蒲州刺史として出向すると、僧の懐照が妖しい妄言で人を扇動しているのを弾劾し、播州に流した[1][3]。
開元11年(723年)、尚隠は河南尹に転じた。開元13年(725年)、劉定高の宗教反乱が夜間に河南県の通洛門を侵犯すると、尚隠はこれを察知できなかったことを罪に問われて、桂州都督に左遷された。開元15年(727年)、広州都督に転じ、五府経略使をつとめた。離任するにあたって、尚隠に金を贈ろうとした者があったが、尚隠はこれを固辞して受け取らなかった。開元17年(729年)、京兆尹に転じ、銀青光禄大夫の位を加えられた。高邑県伯に爵位を進めた。開元22年(734年)、華州刺史に転じた。入朝して大理寺卿となり、王丘に代わって御史大夫となった[4][5]。
司農寺卿の陳思問が銭や穀物を横領し、巨万の財産を不正に蓄えていた。尚隠はこれを取り調べて、陳思問を嶺南に流して死なせた。太子詹事に転じた。開元24年(736年)、戸部尚書に任じられ、東都留守をつとめた。開元28年(740年)、太子賓客に転じた[4][6]。7月6日、死去した[7]。享年は75。諡は貞といった[4][6]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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